永代供養、合祀墓地なら、神奈川県小田原市の「妙了寺」

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こんなお悩みございませんか?

  • 子供たちにお墓で負担をかけさせたくない
  • 独り身なので自分の死後が不安だ
  • 経済的にお墓を建てることができない
  • 先祖代々のお墓には入りたくない
  • お墓が遠くにありなかなかお墓参りに行けない
そのご希望、「妙了寺」が叶えます!

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心をこめた永代供養

740余年続く由緒ある古刹で
大切な御霊の心をこめたご供養をお約束

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0037-60-3038559

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妙了寺が選ばれるポイント

1. 1289年開山の古刹
 

妙了寺は、正応2年(1289年)に、豊後阿闍梨日満聖人が、開基檀越武藤治部少輔清康の外護により開山した、歴史ある古刹です。

2. 当寺院が心を込めて
供養し管理いたします

妙了寺の「合祀墓地」は、墓地代金はもちろん、墓石代も一切かからず、生前の宗教、宗派に関係なく、当寺院が心をこめて供養し管理いたします。

3. 生前のお申込みも
随時可能

妙了寺の「合祀墓地」は、生前お申込みも随時受け付けておりますので、お気軽にご相談ください。

妙了寺の墓地のご案内


  • 過去の宗派不問(佛教信徒であり日蓮宗に敵対しない方)
  • 御遺骨の有無は不問
  • 車椅子でもお参りが楽な平坦地で造成します
  • 後継者のいない方のための「合祀墓地」
  • ペットの「合祀墓地」
※寺院に対する建設的ご意見があれば、お聞かせください

概 要

この妙了寺では、皆様のどの様な要望にも応えることができる墓地を創ろうと考えております。
近世世界では、「お釈迦様は、その思想が余りにも立派すぎるので、2,500年前に我々が住むこの地球上にお生まれになった方ではない」との意見が大勢をなしたことがあるそうです。
しかし、仏舎利塔から言い伝えの通りお釈迦様のお舎利様が出現して、お釈迦様が地球上に出現された事実が、判明したと伝えられております。

このことは、インドでは種々の葬儀の様式があるようですが、仏教徒はその最初の時代から、ご遺体を荼毘に付して埋葬する葬儀を行っていたことが証明されました。
特に、インドにおける法華経を信仰した仏教徒は、仏舎利塔とお教えの全体をお釈迦様そのものとして、護持し信仰した人の集まりであった、とも云われております。

今の我が国の様子を拝見すると、自分が世話を受け、おかげをいただいた方であるにもかかわらず、その方が亡くなってしまうと、ぞんざいで粗略な態度に変わる人が多いように思います。
お釈迦様の教えを受け継ぐ僧侶として、寂しくて悲しくてなりません。

ご自分が亡くなった後その供養が心配な方、縁があっても色々の理由から供養ができない等、事由の如何を問わず遠慮無く、要望をお申し付けください。 どの様なご希望にも総代役員とはかり、ご要望に添うようにしたいと思います。
私は、僧侶になって半世紀、ご志納いただくお布施などは戒名料を含め、請求したことはなく過ごして参りました。
この妙了寺では、総代役員と相談協議しながら皆様の要望に添うような方向に考えています。
なお、墓地の冥加料や護持会費などは、規定ができることとなりましょうが、これらについても個々の事情によって総代役員と相談して、善処したいと思っております。

妙了寺の歴史

創 立


正応2年(1289年)に、豊後阿闍梨日満聖人[元応元年(1319年)正月28日寂]が、開基檀越武藤治部少輔清康(法号・妙了寺殿法久日義大居士・正応2年3月2日卆)の外護により開山す。
創立のころ「延清の地は、九州豊後の大名大伴氏の所領であったので、開山日満聖人・開基檀越武藤清康の両名は大友氏の関係者であったと思われる」とは、識者の見解である。
当然のこと、妙了寺殿清康の墓所は、当山にあったと思われるが、現在では特定することができない。当山は始め山号を、法光山と称したようである。

創立にあたり、静岡にて布教されていた日満聖人を迎え開山されたと云う説があり、また、日満聖人は佐渡で日蓮大聖人をして「再生の考妣(両親のこと)と呼ばれた」阿佛房日得聖人夫妻の子であり、阿佛房妙宣寺の第2世とも云われている。
尚、阿佛房2世日満聖人も豊後房日満と大聖人から名を賜ったと伝えられている。
ただし、康永2年(1343年)癸未8月15日化であり享年89年と本化別頭仏祖統紀に示されている。
妙宣寺所蔵の阿佛房・遠藤氏系図には、『遠藤六郎為長-為盛(故阿仏房日得武者所)-盛綱(後阿仏・藤九郎左衛門尉)-盛正(妙覚・九郎太郎)-興円(佐渡阿闍梨日満)』とある。

日満は白蓮阿闍梨日興(1246~1333)の弟子となり、佐渡における法華弘通の後継者となって、元弘2年(1332年)7月には旧地新保より阿仏坊を現在地に近い真野町大字竹田の地に移して本堂を建立した。
これが妙宣寺の創立である。
この日満は延文5年(1360年)3月21日に89歳で寂とされている。(日蓮宗辞典)

中 興 1

時代の変遷と共に当山にも盛衰在り。
鎌倉妙法寺の住持円明院日澄聖人[永正7年(1510年)3月9日寂]は、小田原を巡錫の時に当山の荒廃する姿をご覧になり、錫を止め中興されたと伝えられている。
また、当山では日澄聖人を、小田原本久寺の第6祖とも伝え、当時を代表する宗学者で、身延山中興の行学院日朝聖人と並び称される。

中 興 2

江戸時代になると、延清の地は旗本・鵜殿氏の所領1800石の一部となる。
中興の開基檀越・鵜殿惣右衛門尉氏信は、法号を徳本院殿覺心日体大居士[寛文11年(1671年)5月20日卆]と云い。
境内御除地8畝を寄せ本堂及び庫裏を建立寄進した。
鵜殿氏信の妻は、法号を本具院殿妙因日住大姉[明暦4年(1658年)7月19日卆]と云い、中興開基より14年前に亡くなり、徳本院殿の墓所の隣に葬られている。

なお、延清の地名は、この鵜殿惣右衛門尉氏信の別名と、小田原市は広報している。
その後鵜殿氏の家系が宝永の時に断絶すると共に、この延清の地は大久保氏の所領に換わって幕末に至るのである。
しかし、また当山は衰退期に入ったようである。

しかし、鵜殿氏の墓所供養は、関東大震災の頃まで続き、寶塔供養と称し眼病平癒の効能が在ったと云われていて、参詣者が絶えなかったと。
言い伝えでは、徳本院殿は、晩年眼病を患い法華経の功徳で平癒され、当地では眼病の守護神と称されていた。

再 興

また、享保3年(1718年)に、当山は、第19世持心院日栄聖人(享保20年正月13日寂)により本堂の再建がなされ、再興されたと伝えられている。
明治の時代に入り、3年(1871年)9月の台風による回禄(火災)に罹る、第30世日田上人の時仮堂を建てられたが、このお堂も第38世日運聖人の時・大正12年(1923年)9月の関東大震災により大破し、残材により小宇が建てられていたが、日運師の資・第42世日清上人の時平成3年(1991年)に、檀徒の協力により新本堂が建立された。

当山は以上述べたように、盛衰在り明治3年の火災や、大震災による大災害などにより歴史を辿ることも難しいが、日蓮聖人座像体内納入文書[元禄17年(1704年)9月27日]や、第30世日田上人の本堂の棟札、及び明治21年1月21日入寺の第33世龍神院日賢聖人の記載による、過去帳等により当山護持の苦難が知られる。
その時々に当山を支えていただいたのは、特に江戸時代以降に於いては、おそらく鵜殿氏の家臣やそれに連なるご縁の方々のおかげである。

老衲など日仁師の縁者が住職を務め、長年に亘って力は無いがその片方に携わって来られたことは、至福の至りである。
なお、当山の歴代については、少ない資料のために判別できないところが多い。
現在調査中である。

妙了寺概要

寺院名 宗教法人 妙了寺
代表者 渡邉 英岳
所在地 〒250-0218 神奈川県小田原市延清136
TEL

0037-60-3038559

0037-60-3038559 ※通話料無料・携帯からも通話できます
FAX 0465-43-7455
休日 なし
設立 正応2(1289)年
日蓮宗総本山 身延山 久遠寺
大本山 ・清澄 清澄寺
・池上 本門寺
・中山 法華経寺
・京都 本圀寺
・京都 妙顕寺

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